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シックキッズニュース7月号(No.38) 川崎病を発見した「川崎富作先生」を偲んで

シックキッズニュース7月号(No.38) 川崎病を発見した「川崎富作先生」を偲んで

雨期の最中でうっとうしい日々が続いています。新型コロナの非常事態宣言解除から1か月がたち、九州ではコロナがほとんど出ることがなくなり、学校にも子供たちの歓声も戻ってきました。まだ歓楽街を中心に患者発生はありますが、若者中心で重症者はいないことが多いようですので、とりあえずひとまずほっと一息というところでしょうか。

さて、先月6月5日に、「川崎病」の最初の症例報告をされた川崎富作先生が、享年95歳で亡くなられました。その悲報は日本だけでなく、いやむしろ海外、アメリカで大きく取り上げられるほどで、米国心臓協会(AHA)は米国外医師としては異例の緊急特集を組むほどでした。今月はその川崎先生をしのび、先生の功績にフォーカスをあて、川崎先生がインタビューなどにこたえられて残された川崎病発見の秘話を皆様方にお知らせいたします。

 

今月のフォーカス 川崎病を見つけた「川崎富作先生」を偲んで

 

1.川崎先生の生い立ち

2.日赤での診療が始まり、学位を取られるまで

3.最初の川崎病患者との遭遇から世紀の川崎病オリジナル論文の投稿まで

4.アレルギー誌発表後の東京都地方会での論争

5.全国実態調査で心血管障害による突然死例が判明

6.2報の重要論文が米国小児科学会誌へ発表され川崎病心血管炎が明らかとなり世界中に知れ渡った

7.川崎病が国際的な評価を得た後

8.川崎病の治療法の確立

9.今月はここまで、病気の原因究明についてはまたの機会に

 

川崎先生の悲報をつたえる6月11日の米国心臓協会(AHA)の追悼記事より

 

1.川崎先生の生い立ち

川崎富作先生は、1925年(大正14年)2月7日、東京浅草で生まれました。1925年、はどんな年だったのか?ウィキペディアで調べてみると、ムッソリーニが独裁宣言した、とか、ナチ党が再建したとか、ソ連の共産党大会でスターリンの一国社会主義論採択とか、アメリカではクー・クラックス・クラン第1回全国大会が開催された、とか、日本では普通選挙法が公布され、25歳以上の男子に選挙権が与えられた一方、活動写真フィルム検閲規則が内務省令で発令されたとか、きな臭い出来事が目白押しだったようです。第1次世界大戦が終結後の矛盾がここにきて爆発。徐々に第2次世界大戦に向けて動き出した、という感じだったのでしょう。同年には、ノーベル賞受賞者の江崎玲於奈氏や、父方が大分県佐伯出身の漫画家富永一朗氏、アレルギー物質IgEの発見者、ラホヤの石坂公成博士らが出生、彼ら偉人も先生と同世代のようです。私にとってもなじみのある方がたの名前がでてきて、そのほとんどの方がすでに鬼籍に入られ、時の流れを感じます。

ところで川崎先生、浅草の商売人の7人兄弟の末っ子として生を受けました。商売人の息子、川崎先生の「富作」という名は、金持ちになってほしいと願い命名されたのではないかと、ご自身推察されています。小学校では6年連続級長。しかし、勉学はあまり好きではなく、休み時間や放課後はけん玉やベーゴマ、メンコに夢中だったそうです。川崎先生のけん玉の腕前は大したもので、国際学会でのパーティでもよく県駄目の腕前を費そうされていたそうです(日本けん玉協会の6/10のfacebookに追悼記事を出したほど)。1936年、府立第七中学(現都立墨田川高校)入学。この当時旧制中学に進む生徒は、先生が推薦した数名だったそうですので、大変優秀だったのでしょう。旧制中学時代、成績は中くらい。お母様が医師の未知へ行かせる強い希望があったそうですが、医師になる自信はなく、千葉高等園芸学校(現千葉大学園芸学部)と母親に気を使って軍医養成のための東大の臨時医専を受験されたそうですが、どちらも不合格。中等学校の補習で浪人して、翌年東京農業大学と千葉医大(現千葉大学医学部)の臨時医専に合格。生物が好きな川崎先生は、本来は東京農大に行きたかったそうですが、母親の意向を汲んで千葉医大へ進まれました。川崎先生の臨床での優れた観察眼は、生物学が好きだったところからきているようです。1945年の終戦でGHQの改革で臨時医専の修学年限も4年から5年に延長されました。1948年医専卒業。1年間千葉医大付属病院でインターンをされ、1949年医師国家試験に合格されました。

軍医養成の臨時医専を卒業されましたが、手術は好きではなく、こどもが好きであるとの理由から1949年、同大学小児科に入局されることを選択されました。入局される際、川崎先生は、当時の千葉医大小児科教授に、「経済的な理由で大学に長く残れませんので、良いところがあれば紹介してください」とお願いされたそうです。念願かない、12月には日本赤十字社中央病院への出向命令がでて、翌1950年1月から日本赤十字社中央病院(現日本赤十字社医療センター)に勤務されています。ということで、大学小児科経験はわずか7か月でした。

 

2.日赤での診療が始まり、学位を取られるまで

日赤入職当時の川崎富作医師

1950年1月4日から日赤での研修がはじまりました。出勤してすぐに小児科副部長の小久保裕先生から正月休み中に「けいれんと意識障害」の乳児を担当するように命じられました。髄液検査のため、髄液穿刺をされたそうですが、なかなかうまくゆかず、部長の内藤先生に直訴したそうです。だいたい大学勤務でいろいろな診療の手技がうまくなるほど研修はできず、やはり野戦病院のような二次病院で患者さんをたくさん見ないとなかなか上手にならないものです。なにはともわれ、内藤寿七郎部長はすぐに病室までついてきてくれて、髄液穿刺を手伝ったというエピソードを語られています。実はこの内藤小児科部長、東大小児科で「小児の各疾患の髄液所見について」と題する論文を報告されているほどに髄液検査に精通されていました。そういう先生直々に髄液検査を指導していただいたのです。結局この乳児、あとで百日咳脳症と診断されたそうですが、そこで終わらないのが川崎先生。顕微鏡でこの子の白血球の数を調べているときに、この子の白血球の核の分葉がおかしいことに気が付いたそうです。つまり、3分葉以上の多分葉の核がなかったそうです。白血球は多分葉化すればするほど分化が進むといわれています。それを小久保副部長に診てもらったところ、側鎖に「これはペルーガだよ」、といわれたそうです。小久保先生、東北実験医学雑誌の英語版に、本邦初のペルーガ氏家族制白血球核異常の家系を報告していたのです。そういう流れもあり、のちに本例は、小久保先生の指導の下、家族全員の血液像を調べて家系樹を作成。1950年7月の「小児科診療」という雑誌に「ペルーガ氏家族性白血球核異常」の題名で、小久保先生や岩谷清秀先生と連名で報告されたそうです。これが川崎先生の輝かしい成果の第一号でした。この雑誌を始めて手にした川崎先生は、「川崎富作」の名を乱した時の感激は、お年をとられてからも忘れることはできない、と後に書かれています。この日赤での第一例の受け持ち患者がきっかけで、終生日赤で骨をうずめる覚悟をした動機となり、この時にすでに将来自らの名の関せられた疾患を経験できたらいいなあと淡い夢を一瞬持ったりもされたそうです。

 1956年4月に内藤寿七郎部長は愛育病院院長に転任され、後任には神前章雄先生が着任されました。前任の内藤部長は臨床一筋で、愛育病院院長に転任されてからも多くの育児書を執筆。「育児の神様」と称されたカラーとは異なり、神前先生は対照的にアカデミックな方だったそうです。着任早々、川崎先生が内藤先生と一緒になって研究を進めていた「牛乳嫌い症の牛乳アレルギー説」を強く否定され、さっさと論文にまとめるよう促したそうです。内藤先生に引き続き指導していただき、「牛乳アレルギーに関する研究 第三編 牛乳アレルギー乳児の経過について」という博士論文を小児科学会雑誌に発表し、千葉大学小児科佐々木教授に博士論文として提出。1957年7月に千葉大学から学位を授与されました。川崎先生が、のちの川崎病オリジナルの論文をなぜアレルギー学会誌に出したのか、謎だったのですが、元々はアレルギーがご専門のようでした。アレルギーの題材で学位論文を授与されたことが、のちの川崎病の最初の症例報告を、日本アレルギー学会雑誌である「アレルギー」誌に報告したことにつながったのでしょうか。

さて、神前部長は川崎先生のために椿山荘で盛大に学位授与祝賀会を開いてくれたそうです。その中の祝辞で、「学位は肉大労働に対する努力賞である」とはっきり宣言されたとのことです。この博士号を取ったばかりの医者を小ばかにしたような発言。たしかに医者の博士というのは掃いて捨てるほどある、と揶揄される風潮があり、最近では学位をとるためにわざわざ貧乏して研究することをばかばかしく感じている若い医師も多いです。さもありなん、と私ならば卑下してしまうところですが、どっこい反骨精神旺盛の川崎先生は、将来頭脳労働で何かお返ししたい、と心に誓ったそうです。とはいえ当時から日赤病院は多くの入院児を受け持ち、外来も多く、とても試験管を振るような基礎医学の研究はできません。そこで、病棟こそ“臨床医の研究室”と心得て、専ら入院患者の観察から何か良いテーマを選ぼうと心がけていたそうです。そして宝石の原石は学位取得後の2年半後、1961年1月に現れました。

 

3.最初の川崎病患者との遭遇から世紀の川崎病オリジナル論文の投稿まで

川崎先生が作成した1961年の川崎病第一例の臨床経過

日赤入職11年目の1961年1月5日、熱と首のリンパ節が腫れた、という主訴で4歳3か月男児が入院してきました。川崎先生が受け持ちました。暮れから6日間高熱が続き、受診時39.7度。首のリンパ節は腫れて、両目は充血、口唇に切れるが入るくらい荒れて炎症していました。舌乳頭も腫れていわゆるイチゴ舌状態。全身に紅斑、手のひらが真っ赤でパンパンにくむみ・・・あとで考えると典型的な川崎病でした。この時代に分かるはずもなく、猩紅熱(いわゆる溶連菌感染症)と考え入院とし、咽頭培養や血液培養を繰り返し、抗菌薬数種類、ステロイドまで使用しました。しかし有意な菌は検出されず、溶連菌に特効的に効くはずのペニシリンも無効。発疹の性状がアレルギーではないかと考え、ステロイドまで全身投与しましたが、効果は示しませんでした。入院後も高熱は1週間(合計2週間)続きました。ようやく熱が下がってから、手足の指先から手袋を脱ぐように皮むけが始まりました。そうです、川崎病に特徴的な膜様落屑です。しかしこの時点では退院時診断を「診断不明」とせざるを得ませんでした。わからないことはわからないとしたうえで、決して忘れずに心に留めておく、ここに川崎先生の本当の力量が偲ばれます。

保険診療ではわからなくても何か適当な病名付けて忙しさにかまけて嫌なことは忘れてしまうのが並の医者です。事実、同時期に川崎病症例に気づき、学会報告した医者は数名おりましたが、残念なことに有名なスティーブンス・ジョンソン症候群とかという有名な薬疹とか、全身型の若年性特発性関節炎のStill病として報告していました。その方たちも、本当にこれはスティーブンス・ジョンソン症候群か?と問われ、適当な病名がないので、とりあえず付けておいただけ、と答えています。ここで川崎先生のように地道に症例集積を続けていたら、もしかして松見病、とか高津病とか違う名前になっていたかもしれません。

この症例が常に頭から離れず、いろいろ文献を調べ、他の小児科医にも相談したそうですが、わからないまま1年過ぎてしまいました。そして翌1962年2月、当直の夜に近くの病院から敗血症疑いの乳児が紹介されてきました。急患室で毛布にくるまれた男児の顔をのぞきこんだ途端、1年前に診断不明のまま退院させた症例と類似していると気づき、思わず声をあげられたそうです。目が真っ赤だけど目やにがない、口唇が真っ赤、栗のリンパ腺も腫れている、服を脱がすと発疹が・・・第1例目とそっくりだったのです。この第2例目を経験するに及び、教科書にもないユニークな臨床像を呈する例が確実に2例存在したと実感されました。そう思って診察すると、次から次にこのカテゴリーに入る症例が入院してきました。そこで1962年10月の日本小児科学会千葉地方会に“非猩紅熱(しょうこうねつ)性落屑症候群について”と題して合計7例を初めて報告しました。こどもで皮向けする病気は猩紅熱(溶連菌)と決まっていいたのですが、培養しても溶連菌も何も生えてこずに、特効的に効くはずのペニシリンが何の役にも立たない症例が7例もありましたと発表しました。川崎先生のホームの千葉で行われた地方会だったこともあり、皆暖かく、何の反応もなかったそうです。川崎先生自らも、この時点ではまだ新しい病気という認識もなく、気軽に発表されたそうです。

その後も同じような症例がどんどん入院してきたそうです。川崎先生がこのわからない病気を調べていることは、看護師の間で知れ渡っていたので、似たような患者さんはみんな川崎先生に主治医を頼んだそうです。川崎先生はそれらの症例を「GOK(God Only Know:

神のみぞしる)ファイル」として密かに症例を記録始めたそうです。そして最初の例から6年たち、50例の症例を経験、詳細に記録することができました。1965年、神前部長の命令で、東日本小児科学会で「皮膚粘膜眼症候群」として症例報告をしました。これは薬疹のスティーブンス・ジョンソン症候群とライター症候群、それに自己免疫疾患のベーチェット病の3つにわかれていました。川崎先生自身はそれには当たらないと考えており不本意だったそうです。ドラマならば、権威者である部長と優秀な部下の葛藤…という流れになるのですが。

ところが翌1966年1月ごろ、神前部長が川崎先生を呼んで、「川崎君、君の言っている病気を自分の目で2例見て確かめた。皮膚粘膜眼症候群ではないね。君の言っている病気は確かにあるね」とお認めになられたそうです。実際に患者さんを診てみた神前先生はようやく独立した疾患であることをお認めになりました。それで気をよくした川崎先生は、日赤内の内科や皮膚科の先生にこれらの患者さんを診てもらいました。皮膚科の垣内洋二先生は東京大学皮膚科の医局まで出向いて、皮膚粘膜眼症候群のエキスパートだった関東逓信病院皮膚科西山茂雄先生を紹介。西山先生にも患者を診ていただいたところ、「スティーブンス・ジョンソンでもベーチェットとも違う。最近報告されたジアノッティ・クロスティ症候群に該当するか調べてみるべきだ」と助言を受けました。同時に「我々臨床家は、このような道の患者を診るのが一番の楽しみですよね」といわれた言葉が、川崎先生にとって忘れられない重みがあったそうです。調べてみても、ジアノッティでもない。神前先生は、すぐに論文にしなさいとおっしゃったとのことです。

すでにGOKファイルをもとに50症例を集めて記録、論文化しておられた川崎先生は、すぐに神前先生にその論文の草稿を持っていきました。数か月後、神前先生は「いい論文を書いたね」とほめてくれて、「これは君一人でやった仕事だから僕の名前はいらない」と川崎先生の見ている前で論文の著書のところにあるご自分の「神前章雄」の名前を赤鉛筆で消されたそうです。これはふつうあり得ません。論文が出たとなると、だれを共著者にのせるか、これ大変です。部長や院長、教授は研究責任者として、また研究費用を出しているから何もしていないように見えても大事な役割があるので、入れるのが普通ですが、それ以外の、研究に全く貢献していないよくわからない面々を含め全員入れるのは、日本の「村社会」で生きるエチケットというか流儀です。「なんで俺の名前はないんだよ、この前俺の論文には君の名前ものせてあげたじゃないか」とクレームがくることはあっても、神前先生のように「私はなんの貢献していないので名前を除いてください」という謙虚な方はいない。神前先生がその気であったら、名前をそのまま載せて、川崎病ではなく「神前病」となっていた可能性はあったのですよね。これは東西問わずふつうにみられる現象なのです。川崎先生もすっかり感動したそうです。さらに神前先生は大変重要な役割をしています。最初の論文のドラフトには川崎先生は、病名を「発熱,眼球結膜の充血,口唇の発赤・びらん・亀裂,頸部リンパ節腫脹,全身の発疹,紅斑を呈する症候群」とそのまま症状を羅列されています。これでは散漫すぎるから、「指趾の特異的落屑を伴う小児の急性熱性皮膚粘膜淋巴腺症候群」にしなさい、と名前をつけてくれたそうです。そうです、私の学生や研修医時代頃、メインで使われていた「小児急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群」、いわゆるMCLSの名づけ親は神前先生だったのです。「この師にしてこの弟子あり」、とはまさにこのことです。こうして川崎病の歴史的なオリジナル論文、「指趾の特異的落屑を伴う小児の急性熱性皮膚粘膜淋巴腺症候群:自験例50例の臨床的観察」が、1967年、日本アレルギー学会誌の「アレルギー」誌に報告されたのです(日本川崎病学会ホームページではカラー写真がみれます。ここのリンクにアクセスしたあと「川崎病に関する最初の学術論文」をクリック)。そのページ数はなんと45ページ。原稿にして二百数十枚。50の自験例のうち、7例を詳細に記述しています。そのころは必要なかった英文抄録(まとめ)も付けたそうです。神前先生は「こんな長い論文をちゃんと読んでくれる人はいないよ」と、絶対にカラー写真をのせなければだめだ、とアドバイスされました。アレルギー誌事務局に患者のカラー写真をもっていったら、「カラー写真の掲載は前例がない」といわれたそうです。でもどうしても乗せてもらわないと困るとごり押ししたら、「検討する」と。結局のせることになったのですが、34万円の費用がかかるといわれたそうです。私が誕生した昭和41年、50年以上前の話です。このころの公務員の給与が5~6万の時代です。公務員の給与7か月分。車1台買える金額。給与が5万ないくらいの川崎先生は、奥様に恐る恐る申し出たら、「しかたないでしょう、それは是非出しなさいよ」と太っ腹をみせてくれたそうです。金銭面も含め、たいへんな苦労があり、世界的、歴史的な論文は生まれたわけです。

川崎病オリジナル論文掲載の歴史的な「アレルギー」誌第16巻3号の表紙

 

川崎病患者のカラー写真(オリジナル論文から)

そしてこの論文の価値は、最近アメリカで再認識されています。6月5日の川崎富作先生の訃報を受け、米国心臓協会(AHA)は6月11日、米国外の医師としては異例とも言える川崎先生の業績を称える詳細な追悼記事を掲載しました。同学会が所蔵していた若かりし日のポートレートや、米国で川崎病の研究・診療に従事する医師たちによる、在りし日の姿をしのぶコメントを併せて紹介していています。そのなかで、「川崎氏が最初にまとめた53ページあまりの論文(英訳版)は驚くほど綿密で、最も美しい臨床報告の一つと言える」「温かい人柄と研究への熱意、そして素晴らしい社会的スキルを持つ川崎氏の周りには熱狂的なファンがいた」とほめちぎりました。実はアレルギー誌の日本語原著発表から35年たった2002年、Jane Burns教授と日本人小児科医2名(Shike Hiroko先生、 清水智佐登先生)の共同で全文英訳してヨーロッパ小児感染症学会誌(The Pediatric Infectious Journal)に掲載。世界に川崎病原著を知らしめました。Burns教授が「川崎病の論文は20世紀の臨床記述の傑作(masterpiece)の一つ」とコメントしています。たとえ日本語の論文でも、内容に価値があれば、時間と空間を超えて世界に認められることを証明した、と川崎先生は語っています。このオリジナル論文、手書きの草稿も既に存在せず、別冊200部もあちこちから請求があり、5部ほど残してみんな配ってしまったそうです。それも現在川崎先生の手元には1部しか残っておらず。掲載誌のアレルギー誌の1967年3月号も先生の手元から消えていたそうですが、免疫グロブリン大量療法の元祖、古庄巻史先生が「私が持っているよりあなたが持っていたほうが価値がある」といって送っていただいたそうです。この1冊だけが大事に手元にあるそうです。その時にはこの論文が世紀の論文になるとは夢にも思っていなかったのです。

Jane Burns教授による川崎病オリジナル論文の賞賛のコメント

 

4.アレルギー誌発表後の東京都地方会での論争

 1967年1月のアレルギー誌での川崎病報告以後、さっそく同月に行われた日本小児科学会東京都地方会で、川崎病が、薬疹の重症型のスティーブンス・ジョンソン症候群か否かで論争が起きています。自衛隊中央病院小児科の松見富士夫先生が「スティーブンス・ジョンソン症候群の3例」を同会で報告したところ、虎の門病院の皆川和先生が、「それは我々も20例ほど経験しているが、スティーブンス・ジョンソンとは違う。スティル氏病(全身型の枠粘性特発性関節炎)と考えてよいと思う」とコメント。さらに、のちの東京女子医大小児科教授の草川三治先生が、「本症のような症例は3例経験したが、スティーブンス・ジョンソンとするには問題がある、川崎が最近多数例報告しているものと同じではないか」と追加コメントを行いました。

論争はこれだけでは収まらず、同年4月の第185回東京都地方会で、聖路加国際病院小児科の山本高治郎先生のグループから、「心炎を合併したスティーブンス・ジョンソン症候群の1例」と題して発表。この発表に、「これは本当にステーブンス・ジョンソンか?」と異議が出ました。共同発表者の山本先生は、「本症例をスティーブンス・ジョンソンというには若干の問題があるが、適当な病名が見当たらないので、ただスティーブンス・ジョンソンを拡張解釈して用いたまでである。病名に固執する意図はない」と補足説明をされました。

同年6月、第187回、聖路加の山本先生たちが川崎先生のアレルギー誌の論文に触発され「急性熱性皮膚粘膜リンパ腺症候群(MCLS)の臨床知見について」と題して23例を追加報告されました。これが川崎病を最初に認める内容の発表となりました。この会で、神前先生が、「この新しい症候群は第一線の医師がしばしば遭遇しているものであるが、意見の違いがあるので、シンポジウムを開いて検討したいと思う」と提案されました。ところが、東大の高津忠夫先生が額に青筋を立てて「そんな病気は教科書には載っていない。我々の病院にも同様の症例が入院してくるが、ステーブンス・ジョンソンと診断している」と吐き捨てるように発言されたそうです。当時、東大小児科方式のソリタT輸液用電解質液を開発して小児の脱水症の問題をことごとく解決。ソリタTの「T」は東大のTだぞ、と上級医に教えてもらったと記憶しています。高津先生はもしからしたら心の中で高津のTとほくそ笑んでいたのかも? とにかく飛ぶ鳥を落とす勢いで、泣く子も黙る東大・高津教授から鶴の一声で存在を否定されたら…さすがの川崎先生も意気消沈。その夜、神前先生と場末の居酒屋でジョッキを叩きつけながら愚痴を言い合ったそうです。実は神前先生、東大の小児科では高津教授が若いころの指導医をされていたそうです。昔の指導医の提案を現在の地位にまかせて言下に否定。こちらの方は不肖の弟子…というのはいささかいいすぎでしょうか?その後5年間、川崎病が東京都地方会で議論になることはなかったそうです。ようやく川崎病のシンポジウムが実現したのは、最初に川崎病を認め追加報告をされた山本先生が1972年に理事代行になるまで待たなければなりませんでした。このことは形骸化したアカデミズムがいかに 柔軟性を欠き,“未知なるもの”に鈍感であるかを、いみじくも露呈したエピソードとなりました。

 

5.全国実態調査で心血管障害による突然死例が判明

 1967年の東京都地方会で本症が否定されたにもかかわらず、各地方会から川崎病(このころはMCLSと呼ばれていました)の報告が相次いでなされました。その流れで神前先生は、1969年2月、厚生省研究費申請を命じられました、川崎先生にとって初めての研究費の申請書。2か月シックハック苦労して3月31日の締め切りぎりぎりにやっと間に合い、厚生省に提出してにもかかわらず、7月に不採用のはがき1枚届いたそうです。もう二度と申請しない、と心に決めたそうです。

ところが、翌1970年に再びチャレンジするように神前先生から言われました。「二度と出す気持ちはない」といったところ、「君、都営住宅だって1回や2回の申請で通りはしないんだ。1回や2回であきらめてはダメだよ」と諭され、いわれてみればそうだなと思いなおしました。そして今度は戦術を替えました。一度責任者にあってみよう、と。朝8時半に厚生省大臣官房化学記述参事官室前に突撃面会です。ところが9時になっても誰も来ない。9時半になって鍵を開けて入る人がいて、ついていったら「なんの御用ですか」と。「実は研究費の請求に」と返事しました。それが研究費の責任者の加倉井駿一技術参事官だったのです。じろりと顔を見て「お座りください」。早速原著や発表資料、患者のカラー写真を広げて説明したところ、加倉井氏はとても丁寧に話を聞いてくれたそうです。すると「疫学調査はされましたか?」と聞かれたそうです。川崎先生はそんなことは全然考えていなかったそうです。そして公衆衛生院の重松逸造部長を紹介されました。早速同日夕方6時に重松先生を伺ったそうです。説明をじっと聞いていた重松先生は、「面白そうですな~、しかし今から1970年度の研究費は取れも間に合わないよ、厚生省のこういう研究費は前年のうちに決まっているから」といわれたところに、電話が鳴り、「ああ、ここに見えていますよ」。そう、加倉井氏からの電話でした。「加倉井君が電話をかけてきたところをみると、彼には研究費の腹づもりがあるに違いない。じゃあやりましょうか」と、とんとん拍子に事が運び、1970年度の厚生省科学参事官室の医療研究助成補助金でトップの200万円がついたというわけです。まさに鉄は熱いうちに打て。尋常ではない行動力が功を奏した形になりました。厚生省科学技術助成補助金を獲得後、厚生省研究班が結成されました(神前章雄先生班長)。

そして国立公衆衛生院疫学部の重松逸造先生、柳川洋先生のもと、診断の手引きが作成され、それをもとに第1回川崎病全国実態調査を実施。その結果、総数1857人が患者として登録されました。川崎病は全国津々浦々に存在し、予後はいいと思われていた本症に実は突然死が26名存在していたことが判明しました。そこで、死亡例の検討会を開催しました。10例の死亡例を詳細に検討してみたところ、全員に心肥大、心筋炎が認められ、病理解剖した4人全員が心臓の冠状動脈に瘤ができて、その中で血栓が発生、血管が閉塞してしまい心筋梗塞を起こして死亡していたことが判明しました。病理診断名は乳児結節性動脈周囲炎。新しいタイプの血管炎症候群であることが判明しました。

 

6.2報の重要論文が米国小児科学会誌へ発表され川崎病心血管炎が明らかとなり世界中に知れ渡った

 川崎病は後遺症を残さず予後はいい、そう診断の手引きに書いたにもかかわらず、1857人中26人(1.4%)も突然死していたのです。これは大変だ、というわけで、同年11月に突然死を経験された先生方に東京に集まってもらい検討会を開きました。そこでこれは容易な病気ではない、と身にしみて感じたというわけです。

実をいうと、川崎先生自身も1961年と1965年に日赤で2例突然死を経験しており、病理解剖していました。やはり冠状動脈瘤と血栓性閉塞による心筋梗塞で死亡。病理診断は結節性動脈周囲炎でした。病理解剖した日赤の田中昇先生は、川崎先生が論文で報告した治癒した50例と、突然死した2例も同じカテゴリーに入ると主張されましたが、川崎先生自身は予後良好であった50例と死亡した2例を一緒にすることができなかったそうです。田中先生はどうして一緒のカテゴリーに入れなかったのだと怒ったそうです。田中先生、今から見ればすごい先見の明ありです。

その後1972年、都立墨東病院で5歳の川崎病の子が、治癒した半年後に心筋梗塞を起こした、と日赤に救急搬送されてきました。東京女子医大の草川三治先生のところで大動脈造影を行ったら、左の冠状動脈に大きな瘤が発見されました。これが元気になった患者で間動脈瘤が発見された第1例となりました。その後、同様の報告が次々に現れました。

1973年の厚生省研究班会議で、久留米大学の加藤裕久教授(前大分こども療育センター長)が、冠動脈症例の一部の動脈瘤が退縮するという、常識では考えられない報告を行いました(小児急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群の冠動脈病変 日本醫事新報 1974;2605:37)。ちなみに加藤先生は私の博士号の主任指導教授です。現在も80歳を優に超えられていますが、ここ大分の大分こども療育センターのセンター長として昨年度まで現役で頑張られておられました(今年退官されたようです)。私も加藤先生に命じられ、免疫学教室に派遣されて、川崎病患者とその兄弟のリンパ球のサイトカイン産生能を調べたり、サイトカインのプロモーターの遺伝子変異を調べたりしました。残念ながら川崎病の原因に結びつかなかったエピソードはこちらのブログに詳しく書いています。

その後、川崎病と心血管病変の臨床研究は、東京女子医科大学の浜田勇先生、高尾篤良先生、浅井利夫先生、草川三治先生たちのグループが先鞭をつけ、1974年に川崎先生が米国小児科学会誌Pediatricsに重松先生と共著で論文を発表。そして久留米の加藤裕久先生が1975年、Journal of PediatricsにMCLSの冠動脈瘤の論文を発表。この論文を契機にこどもに新しいタイプの血管炎を起こす原因不明の謎の新しい病気と世界的に大反響となり、各国で追試が行われました。そして1976年ごろから世界で「Kawasaki Disesase」、あるいは「Kawasaki Syndrome」と知れ渡ることになりました。そして1978年第9回修正国際疾病分類446.1に採用され、正式に新しい疾患として認められました。翌1979年、小児科のバイブル「Textbook of Pediatrics(ネルソン小児科学)」第10版に初めて登場するに及んで、本症の国際的評価は定着、Kawasaki Disesase、川崎病は国際的な市民権が与えられました。川崎先生が米国小児科学会誌「Pediatrics」にはじめて世界に川崎病を紹介した1974年に亡くなられた東大の高津忠夫先生。東京都地方会で「こんな病気は教科書に載っていない」と言下に否定された先生ですが、先生は草葉の陰でどう感じられたでしょうか?

ネルソンのTextbook(第14版)の川崎病の記載ページ(久留米入局記念に山下文雄教授にいただいた宝物のネルソン)

 

7.川崎病が国際的な評価を得た後

 1980年、海外で初めて川崎病のシンポジウムが組まれました。バルセロナで開かれた第16回国際小児科学会です。会長のBalllabriga先生は、川崎先生が発表された川崎病の論文を読んでおり、数年前に日本に講演に来たときに、川崎先生に会いに行かれたそうです。Ballabriga先生は、若いころにチューリッヒの小児病院でよく見ていた「肢端疼(紅?)痛症」と似ているから、実際に患者さんを診てみたいと申し出たそうです。川崎先生はちょうど都立墨東病院に川崎病患者さんが入院中であることを知っていたので、2人でみに行かれたそうです。Balllabriga先生いわく、肢端疼(紅?)痛症のこどもは大変まぶしがり、手を顔にあてて指の間から人の顔をみるそうです。で、実際にみた墨東病院の川崎病患者さんはその兆候が全くないので、肢端疼(紅?)痛症とは違うといわれました。優秀な臨床医は気になる患者さん、珍しい患者さんがいれば、何をさておいても患者さんを実際に身に行くこと、これは研修医時代に上級医に言われていたのですが、まさに「百聞は一見に如かず」。国際小児科学会の会長をされるほどえらい先生も、本当にこれを実行されるのですね。

さて、実際の国際学会でのシンポジウムでは、外国にはまだこの症例が知られていなかったこともあり、ディスカッションはなかったそうです。ただ、新しい概念の病気ということで関心は高く、聴衆は廊下にまであふれていたそうで、診断の手引きを出席者に配ったら、女医さんたちからサインをねだられ、一緒に写真まで取ってくれと頼まれたそうです。それが下の写真らしいです。この時が人生最良の時だったと、冗談交じりに回想されています。

1982年、日本心臓財団が川崎病原因究明委員会を設置。きっかけは、例の東京都地方会での川崎病をめぐる論争を、朝日新聞の当時の科学部記者の田辺功氏が興味を持ったことがきっかけでした。そのうちに1979年、1982年の2回、川崎病の全国的流行がおき、死亡者も数十人を超え、新聞でも大きく扱うようになり、社会問題となりました。ここで田辺氏は1982年5月28日、朝日の社説で「日本で見つかり日本に集中している川崎病の解決には、官民協力し、もっと思い切った研究費をつぎ込む必要があろう」と書きました。この田辺氏の呼びかけに答えて、日本心臓財団を中心に、研究費をつぎ込み原因球形に尽力すべきだ、という機運が盛り上がったそうです。日本心臓財団は、1970年に経済界と医学会がつくった財団法人で、脳卒中と心臓病予防の啓発活動、研究費の援助をしていたそうです。当時国からの研究費がわずか400万円と少なく、苦しい台所事情で行っていたそうです。そこで心臓財団が、東京海上保険会社からの寄付金1000万円を川崎病原因究明に充てることを決め、さらに日本初の試みとして「一口1000円」の国民募金を実施して研究費を集めることにしました。日本心臓病財団の啓発で国民の大きな関心を呼び、厚労省、ならびに文部省川崎病研究費もそれぞれ1000万円に増額されました。1982年7月、「日本心臓財団・川崎病原因究明委員会」が発足しました。委員長の重松逸造先生は「3年で原因究明できなかったら切腹ものだ」と意気込んでみんなを鼓舞して一生懸命やりました。しかし3年どころか2020年の今になっても原因がはっきりしないという有様(現在、福岡こども病院院長・原寿郎先生のグループのNOD1リガンド説や酸化リン脂質説がかなり近づいているようです)。この委員会は10年間続き、1992年に解散してしまいました。その間、一口1000円募金には5566件6627万円の募金が寄せられたそうです。

1984年にはハワイのオアフ島で第1回日米川崎病ワークショップが開催されました。1985年世界心臓学会がニューヨークで開催され、川崎先生は講演をされたそうです。この時、ニューヨークの有名なゴーシャスホテル「ウォルドルフ・アストリア」ホテル&リゾートに学会からとめていただいたそうです。しかもスイートルーム。こんな機会は二度とない、ということで一緒に学会に参加していた久留米大学の先生たちを部屋に呼んで見せてあげたそうです。川崎先生の茶目っ気がみてとれますが、ところでこの久留米の先生たち、とはだれのことでしょう?私の大先輩の小児循環器医の先生たちでしょうから気になります。

1989年には、リュウマチ熱(溶連菌感染症後の心臓弁膜症。今ではすっかり見なくなりました)の大家でJonesの診断基準で有名なT. Duckett Jones博士を記念して米国心臓病協会が創設したT. Duckett Jones記念賞を受賞。その記念講演会では解消全員のスタンディングオーベーションが起きたそうです。聴講していた東洋人は、悪書を求めてきて「東洋人の誇りだ」と。世界に川崎病が認められ、まさにこのころが、川崎先生にとって人生最良であったと思います。このT. Duckett Jones記念賞、2004年にはボストン小児病院カワサキプログラムのJane Newburger博士も受賞されています。川崎病関連で2つ受賞をいうわけです。

川崎先生も1990年に日本赤十字社医療センターを退職されました。1950年正月から40年間、日赤一筋で勤め上げられたというわけです。その後退職してすぐに日本心臓財団原因究明委員会が川崎病情報センターを立ち上げ、そこに就任されます。原因究明委員会はその目的を遂げることなく、1992年に10年で解散しますが、川崎病情報センターは「日本川崎病研究センター」と名称改め、現在も活動中です。

 

8.川崎病の治療法の確立

 川崎病の原因がいまだにはっきりしない以上、原因に対する根本治療やワクチンなどの予防法は確立できません。1961年の第1例目の症例でも明らかのように、抗菌薬の効果は全く見られないことはわかっていました。1967年のMCLS(川崎病)の存在が明らかになって以降、長く続く高熱に対し、抗炎症剤として当時頻繁に使用されていた「アスピリン」の大量療法が用いられるようになりました。これは1970年代に川崎病全国実態調査がはじまり、川崎病の心血管障害の合併の存在が明らかになる中で、実はアスピリン療法は理にかなっていたことがわかりました。アスピリンは血管炎や血管塞栓症などの血管障害の薬だからです。1975年に加藤先生たちからの川崎病と冠動脈病変について、米国小児科学会誌に報告してはっきりとした関連性を示されて以降、川崎病に対し心血管障害にも使用されるアスピリン投与の推奨がなされました。これによりそれまで2%の死亡率だったのが1%を切るようになりました。アスピリンは使用されはじめて50年以上経過けれど、いまだに川崎病患者さんにまず使用される薬であり続けています。しかし1970年代までのアスピリン内服単独では、川崎病に伴う心血管障害は発症30日後に20から25%程度発生し(4-5人に一人)、十分な効果を発揮しているとはいえませんでした。そして、1979年、1982年そして1986年に3回の川崎病大流行が起きてしまいました。1982年の大流行では1万5千人以上の患者さんが発生。死亡率はこのころ0.25%だったため、40人近くの多くの川崎病児が命を落とす結果となりました。

1984年、イギリスのLancetというイギリスの一流臨床誌に、当時小倉記念病院小児科部長の古庄巻史先生(川崎先生にオリジナル論文掲載誌アレルギー誌を贈呈された先生)たちのグループが、川崎病患者に免疫グロブリン療法(体重1kgあたり400mg、5日間投与)で冠動脈病変の発生を抑制することを発表されました。1981年に発表された特発性血小板減少性紫斑病の免疫グロブリン療法にヒントを得て、川崎病に応用したそうです。アスピリンの時代から免疫グロブリンの時代の幕開けでした。これを機に他施設でも免疫グロブリン療法の治験が盛んにおこなわれ、体重1kgあたり100mg、5日間投与では効果が劣るが、200mg、5日間投与でも400mgと同じ程度の冠動脈病変の抑制効果があるということがわかり、結局1990年から体重1kg当たり200mg、5日間投与が保険収載されました。一方、ボストン小児病院カワサキプログラムのJane Newburger(ジェーン・ニューバーガー)教授たちが、1991年ハーバード大学医学部機関誌であるニューイングランド医学ジャーナルに、他施設共同で免疫グロブリン大量療法の治験の結果を報告。日本で行っている5日間分割して投与する方法よりも、体重あたり2gまとめて1日で投与したほうが冠動脈病変を抑制できることを報告しました。ちょうど私が久留米大学に入局したころで、同大学でも体重あたり2g単回投与の治験が開始されているときでした。これまでの1回あたり200mg/kgの10倍量をわずか1日かけて投与する方法で、心不全などの副作用出現におびえながら一晩中バイタルサインをモニタリングしてやってました。効果は下の図に示すように絶大で、2003年に、体重あたり2gの免疫グロブリン大量療法は保険収載され、以後冠動脈病変の発生率は激減しました。

アスピリン、免疫グロブリン大量療法の川崎病心血管病変予防効果

現在、アスピリン療法や免疫グロブリン大量療法に加え、それに反応しない一部の重症川崎病に対し、セカンドラインで①メチルプレドニゾロンパルス療法を併用する療法(小林、佐地先生らのRAISE study)、②TNFというサイトサイトカインを抑えるインフリキシマブという生物製剤を投与する方法(Weiss et al. 2004, Burns et al. 2005)、③免疫抑制剤シクロスポリン経口薬併用療法(KAICA Trial. 2016-2019)など優れた治療法が開発され、年間1万5千人以上川崎病が発生している中、死亡率は年間数名と川崎病で命を落とす患者はほとんどいなくなってしまいました。

 

9.今月はここまで、病気の原因究明についてはまたの機会に

先月5日に亡くなられた川崎富作先生を追悼して、今月は皆様に、一般病院勤務のキャリアしかなかった川崎富作先生が、新しい病気をいかに発見して、世界が認めてくれるまでのサクセスストーリーとその後をご紹介いたしました。その後、先生は世界中の研究者と連携して全精力を上げて川崎病の原因に挑むのですが、1967年の発表から40年以上世界中で精力的に研究されているにもかかわらず、これだ!というものが出ていません。1974年の栄光のPediatrics発表後、先生は川崎病病因解明のため、いばらの道を35年以上歩いていたわけです。ボストン小児病院のNewburger博士が2004年にT. Duckett Jones記念賞を受賞した時の記念講演の演題名が「The load goes ever on(道は続く)」。いつまで道は続くのでしょうか?

この川崎病物語で登場する先生方は、私にも少しですが所縁があります。まず川崎富作先生。先生とは私の直接の恩師、久留米大学の加藤裕久教授と懇意で、その縁で久留米大学の客員教授であらせられた関係で、加藤先生と川崎先生の宴席の末席を濁したこともあります。その当時のわたしは、5年の小児科臨床研修を終えて学会認定医を取得し、博士号取得のために加藤先生に命じられ、川崎病原因究明のために免疫学教室に派遣されたばかりの頃でした。第5回国際川崎病シンポジウムが久留米の加藤裕久教授主催によりアクロス福岡で開かれ、それに参加されるために来福されていた時だと記憶しています。気さくで終始にこにこおさけを召されていましたが、お開きの直前、突然お役人さんの話をされました。酔いが回られたせいもあり、温厚な川崎先生とは思えぬ舌鋒鋭い言い方。日本心臓財団の原因究明委員会が志半ばで頓挫し、研究費もままならないなかで川崎病研究が進まない現状を憂えられていたのでしょうか。

久留米大学で川崎病の心血管病変の研究をされ多大な貢献をされた加藤裕久先生。私の直接の師です。川崎病病因解明のため免疫学教室に派遣していただき、患者さんのリンパ球のサイトカイン産生能の研究をさせていただきました(この辺に興味がある方はこちらのブログへ)。そして驚いたことに、2度目の大分こども病院勤務の2013年当時、同院の非常勤教授としてご在籍されており、週1回の川崎病児の心エコー検査を先生御自ら直接指導していただきました。大分の川崎病患者さんたちは、小児科学会賞受賞の大先生からエコーしてもらって幸せだなーとみんなで言い合っていました。私が海外留学中は、娘が尿管奇形でボストン小児病院で主日してもらったときには、加藤先生が心配されて、ボストン小児病院のNewbuger教授を紹介してあけようか、と声をかけていただきました。英語の喋れない私は怖気付き、丁重にお断りいたしましたが、今から考えると貴重な機会を失ってしまったと大変惜しい気持ちもあります。

開業記念に加藤先生からいただいた色紙

また留学中になぜか日本在住の知らないアメリカ人の中年女性から私にEメールが届き、東京在住の成人の娘が小さいころに川崎病だったが、日本で長期フォローしていただける病院を探しているけど知りませんか?と連絡が突然来ました。早速加藤教授に相談させていただき、東邦大学の佐地勉教授を紹介していただきました。この川崎病物語を執筆する際に、日本心臓財団主催のMeet the Historyという対談記事を参考にさせていただいたのですが、その対談記事のゲストは当然川崎先生で、財団側のホストがこの東邦大教授・佐地勉先生でした。その佐地先生に、知らない日本在住のアメリカ女性が日本で川崎病の心臓フォローを希望している…などと不躾ながら連絡を取らせていただきました。見ず知らずの研究員から見ず知らずの外国人を紹介されたにもかかわらず、佐地先生は快く診療を引き受けていただきました。Eメールでのやり取りでしたが、佐地先生もボストンに留学されており、ラリーバード率いるNBAのボストンセルテックスの大ファンだという話もでました。

小倉記念病院で川崎病の「免疫グロブリン大量療法」を始めて革命を起こした元京都大学古庄巻史教授とは、私が天草で働いていた2008年に、天草小児医療研究会で先生が「乳幼児喘息の治療」の演題ではるばる天草の本渡まで講演に来られた際、懇親会でお話させていただきました。娘さんが私と同じ宮崎医大出身であること、カナダ留学時代の京都大学小児科の友人のことなどで、私が田舎の一小児科医にもかかわらず、気さくに話をしていただけました。しばらくたって先生の訃報を耳にして感無量でした。

長い与太話はさておき、病気の原因はいまだ解明できていませんが、幸いにも治療法はそれなりに進み、川崎病で命を落としたり、冠動脈病変でずっとアスピリンを内服しないといけない人は激減しています。2006年、日本小児科学会は、日本で発見され、世界で日本人の発見者の名前が使われている川崎病の発見者として、川崎富作先生を、第1回日本小児科学会賞を授与しました。その後2012年、第7回の小児科学会賞には川崎病の心血管病変解明に尽くされた久留米大学名誉教授で前大分こども療育センター長、加藤裕久先生に授与となりました。川崎病関連で2名も小児科学会賞を授与しているところをみても、川崎病がどれだけ重要な病気であるか、これをみてもわかると思います。今後も折をみて川崎病の話題は取りあげてゆきたいと思います。

参考にした文献

 川崎病 増え続ける謎の小児疾患 三浦大 弘文堂

 研究を始める動機 川崎富作 日本放射線技術学会雑誌 54(5), 702-706, 1998

 川崎病と闘う日々 Part1, Part2 川崎富作、佐地勉 日本心臓財団 

 川崎病の発見 川崎富作 日本循環器学会専門医誌 循環器専門医第24巻第 1 号 2016年 2 月

 川崎病に罹ったこともをどう治療するか 佐地勉 日本保健研究

 

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