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シックキッズニュース 9月号 No76 西間三馨先生の特別講演「重症喘息児との歩み」から

シックキッズニュース 9月号 No76 西間三馨先生の特別講演「重症喘息児との歩み」から

ちょうど執筆中の今は、長い梅雨が明け、暑い夏満開のお盆のころ。このころになると、若いころに勤めていた上天草喘息センターでの喘息教室(サマーキャンプ)、こどもたちみんなの元気な掛け声を思い出します

さて、今月は日本の重症喘息児の管理の歴史を再考してみることにしました。去る7月15日土曜の午後の診療を休診にして、福岡で開催された第39回日本小児臨床アレルギー学会に参加し、念願の西間三馨先生の特別講演を聴かせていただきました。重症喘息児に対してまだ吸入ステロイド療法導入以前の、長期入院の上、施設療法が中心で、重症喘息児がたくさん亡くなっていた時代、昭和40年ごろだから、45年くらい前から2017年喘息死ゼロ達成までのお話です。日本の喘息死の数が世界に比べて多いことがわかり、日本流の喘息治療・管理法が世界からケチョンケチョンにたたかれ、それでもそれから20年で日本の喘息死をゼロにもっていった経緯を述べられました。温故知新、日本の喘息治療管理の歴史を勉強するいい機会になりましたので、皆様方と共有したいと思います

今月のフォーカス 西間三馨先生の特別講演「重症喘息児との歩み」から

  • 重症喘息児と関わることになった決定的な契機
  • 国立療養所南福岡病院(現NHO福岡病院)に喘息児のための施設入院療法を行う喘息病棟を設立
  • 昭和54年、NHKのシリーズ「医師群像」で紹介された南福岡病院での施設療法の実際
  • 施設入院療法で得た重症喘息児の課題
  • おまけ:旧上天草喘息センターのこと

重症喘息児と関わることになった決定的な契機

1968年に九州大学医学部を卒業された西間三馨先生は、卒業後九大小児科に入局され、2年ほど大学で研修されています。2年間で54名の受持ち児があったそうですが、12名が気管支喘息児だったそうです。このころ、日本は「70年安保」を背景に、医学生や青年医師の間にもインターンボイコット運動や診療ボイコット運動など、いわゆる「青年医師連合(青医連)」運動が盛んでした

血気盛んな青年小児科医、西間先生も夜を徹し、仲間と「医の倫理」や「医の社会性」を熱く語り合っていたそうです。のちに受賞される人事院総裁賞での先生の紹介欄をみると、ここでの経験が、その後の彼特有の「自分の基盤をしっかり持ち、そのポジションで出来ることを誠心誠意、しっかりやる。結果は必ずついてくる」の楽天的信念の原点となったとのことです。ともかく、青医連運動の一環で「診療ボイコット」を行い、受け持ち患者はいなくなったそうですが、いずれは運動も冷め、1~2年で病院に戻り、外来を手伝い始めました。帰ってみると、喘息専用病床12床は他の疾患児に取られ、なくなっていました

そのうちに病院外来で減感作療法を行っていた中学生の男子が、突然死したそうです。蘇生措置に全く反応しませんでした。そしてその1か月後、入院中の小学校高学年男子が昼間、入院ベッド上で西間先生の目の前で急死しました。病院上げて絶対助ける、ということで、麻酔科を含む10年物医師が駆けつけて蘇生しましたが、だめだったそうです。1970年代の重症喘息児の悲惨な状況が読み取れます。先生の受け持ちではなかったそうですが、さすがにタフな西間先生も、短期間に2人の小中学生の死を目前にみて、米国デンバーのナショナル・ジューイッシュ・ヘルスという九大小児科が代々留学先にしているところに行こうか、という気にちらりとなったそうです。それを感じた九大病院ナンバーワンの重症喘息の女の子のお母さんが「先生、まさかアメリカに留学することはありませんよね!」とくぎを刺してきたそうです。先生は「そんなことはありませんよ、あなたの娘を見捨ててゆくことはございませんよ」と返事をされました。その瞬間から、重症喘息児と関わることになったとのことです

先生が重症喘息児を関わることになった契機は、「予期せざる突然死(unexpected sudden death)」を起こした2人の重症喘息児であり、しかし、「予期せざる」とはいえ、なんとか予期できないのか、起こしやすいハイリスク児は?死のサインは?・・・それを突き止めることが先生のテーマになったそうです。まるで青医連でかけていた情熱が、予期せざる突然死の解明と防止することに移ったようだとおっしゃっていました

国立療養所南福岡病院(現NHO福岡病院)に喘息児のための施設入院療法を行う喘息病棟を設立

先生が重症喘息をやろうと思い立った時代、1970年初頭は、喘息については解明されていないことが多く、そもそもどれくらい喘息患者がいるのか、大人と子供でどうなのか、世界的に見て日本はどうなのか、そんなデータもありませんでした。でもともかく、重症喘息児を「死の環境」から守る、ということで、集団療法や精神作業療法ができる施設入院療法ができる施設を作ることが最優先課題となりました。1960年代は九大小児科でも「風の子会」といって、喘息専用病床入院時に長期入院させて病院の庭を朝は知らせて冷水シャワーを浴びさせる鍛錬療法をやっていたそうですが、前述した通り青医連運動で先生方が離れている間に専用病床がなくなるというということで、別の場所に作ろうということになりました。そして1973年福岡市南区の国立療養所南福岡病院に着任され、本格的に喘息児の長期施設療法の為の施設を立ち上げ診療を開始されました

昭和54年、NHKのシリーズ「医師群像」で紹介された南福岡病院での施設療法の実際

ここで、先生のご講演の一番の肝、昭和53年か54年かにNHKで15分間放映された「シリーズ医師群像」の中で先生の南福岡でのご活躍を紹介された「ゼンソク児病棟」のドキュメントのVTRを流していただきました。今でいう「プロジェクトX挑戦者たち」みたいなものでしょうか。けど妙な口調のナレーションみたいなくだらない演出は一切なく、南福岡でのご活躍のご活躍を淡々と紹介するながれでした

ファーストカットだけは結構衝撃的な図で、喘息重積状態でひぃーひぃー苦しんで横たわっている小学生男児に、先生と看護婦が解除している映像が流されます。先生は真剣な表情でしかし落ち着いた声でこどもに声掛けしながら観血的陽圧換気(IPPV)でアシストしながらアスプール酸素を投与している図は強烈です。1990年から小児科医として働き始めた私はこんな重症喘息児は経験がありません。しかしこの映像で重症喘息児の大発作のことは一目瞭然です

その後、突然、今度は施設療法の平和な一日の生活の様子が流されます。西間先生が病院の中庭に作られた公園で登校前のこどもの中を回診される様子です。そして病棟のベットの上でにこにこカメラの方を見ている入院児が流されます

診療中の先生の椅子の背もたれに子ザルのようにぶら下がっていたずらして、先生に小突かれたり、先生はこども達の大変な人気者であった様子がうつされます。重症喘息児、といっても、化学療法中の小児がん闘病中のこどもさんたちとは違い、発作が起きていないときは、回診中の先生にぶら下がって甘えたり、診療中の先生の椅子の背もたれに子ザルのようにぶら下がっていたずらして、先生に小突かれたり。本当に普通のこどもと同じ元気なこどもです

院内食堂で定期的に開かれていた病棟カンファレンスでは、右肺の中葉の無気肺を起こしてしまっている患者のプレゼンの様子が放映されていました

このころは医師4人、看護婦30人で運営とのことでした。「患者としてこどもをみるだけではなく、生活すべての面でこどもたちと接することが喘息治療の決め手である」と先生が言っておられることを紹介します。そうです。当時34歳で花の独身の先生は、病院内の2LKの官舎に住まわれ、仕事場も病室の一部を間仕切りして仕事されていました。4歳から16歳まで計71人の施設入院児と生活を共にし、文字通り寝ても覚めても、身も心もささげて診療され、その言葉を実践されていました

夏休み前の退院前検討会の模様が流されます。喘息の状態が落ち着いたこどもの退院を、病棟スタッフ全員で一人一人検討してゆきます。なかには喘息は落ち着いているが、家庭の事情でダメ、とか、学校の問題、つまり退院しても長期欠席で勉強が追いついておらず、隣接する屋形原養護学校や院内でのマンツーマンの勉強が必要、と判断され、退院延期になるこどもも少なからずいます

集団での冷水摩擦の様子や早朝ランニングの様子が放映されます。これらはどこの施設でも行われたおなじみの鍛錬療法ですが、あまり古きに縛られない進取の気性の西間先生のこと。なんとなく行われていたこれら鍛錬療法ってホントに意味あるの、エビデンスないでしょって引っかかっていたようです

動脈血採血の様子やスパイメーターを使用したフローボリューム曲線作成もこの時代から入院児全員ルーチン行われ、データをとられている様子も放映されています。講演の中で西間先生が、これだけエビデンスが積みあがって有用とされているスパイロを、いまだに喘息診療や喘息入院時にルーチンで行われていないことを大いに嘆かれておりました

病室を1部屋6床を8床にふやし、その代わり2室空けて勉強部屋に変えました。そして先生を含む病棟医は勤務が終わってからも「父親代わり、兄貴替わりではなくてはならない」ということで付きっきりで勉強を教えていました。それどころか西間先生がお金を出して家庭教師までつけてこどもたちに勉強させました。それほど学校の欠席日数の積み上がりとそれに伴う勉強の遅れは、重症喘息児にとってもう一つの大きな問題でありました。入院時に学力をつけさせるということは最優先の課題としていたとコメントされています。本当は喘息児は夜学校に行かせて昼寝かせていたほうがいいんじゃないかと養護学校に要望されたそうですが、当然「できません」と断られていたそうです。先生の常識は公務員の先生には非常識です

試験外泊させると発作を起こすので、じゃあ、俺の家ではおこさんだろう、と先生は官舎に子供たち数名づつ順番に外泊させてみた様子も放映されました。この時代は、喘息は親が悪いから起こす、とかいういわゆる喘息の「母原病」説が普通に言われていた時代でした。今そんなことをいったら、なんたらハラスメント、とか、SNSや口コミサイトで炎上間違いなしですね。ただ、こども達はお構いなく先生の部屋の冷蔵庫を開けて、昔懐かしファンタやコーラの500mL瓶を取り出してクッキーまで取り出してぱりぱりごくごくし始めます。日記を書かせて読ませているほほえましいシーンが放映されます。医者の家では発作は出ないだろうと踏んでいたら、やはり12時過ぎくらいから「こんこん」といや~な咳を初めてごそごそ起きだしてくる子もいたそうです。吸入中に2人とも眠り込んで、ネブライザーが熱くなるまで起きなかったこともあったそうですが、さすがに自宅に帰すより発作頻度は少なかったそうです。九大教授に「家庭に帰したほうが発作出ますよ、うちではそんなにでませんでしたよ」と報告したら、教授から、「君のところは家庭といえるのかなぁ」と嫌味を言われたそうです

そして夏休み前の退院見込み児の発表のシーンです。みんなを食堂か何か大広間に集めて西間先生直々の発表です。みんな楽しみに自分の名前が呼ばれるのを待っています。一人ひとり呼ばれるたびにみんなから「はー」とか「ほぉー」とか「わー」とかおどろきというかうらやましいというか何とも言えない声が発せられます。そしてこの場面で西間先生が衝撃的なお話をされました。「この絵の中にもですね、何人も死んだ子がいるんですね・・・家にかえったあと・・・」。会場にはVTRに流れる子供たちの何とも言えない歓声はそのまま流れていましたが、その一瞬、空気が凍り付いたようなように感じました。重症喘息児、とか喘息死とかいう言葉は何度もこの講演で出てきましたが、正直それまでは実感できませんでした。が、この場面でいわれたら、ずしんときました。一緒に生活や勉強を共にして「せんせーせんせー」となついていた多くの喘息児を実際になくすことはどれほどのものか。幸せな時代に診療ができている私なんかにはずしんと来ましたがまだまだ足りないと思います。おそらく先生ほど喘息死ゼロを願われた方はいらっしゃらないでしょう

放送は「ゼンソクは医学の上ではまだわからないことが多すぎる分野だといわれます。西間先生は、そのわからない分野をこども達との付き合いの中から解決の糸口を見つけていくのだ、といいます」とナレーションがあった後、最後に西間先生の言葉として「あらゆる角度から治療してしていかなきゃ、喘息の治療はあり得ない」と締めています。他にも大事そうなことを言われているようですが、ちょうど西間先生自身がコメントして、「朝ごはんのときに食堂を回ってこどもたちから食事をもらっていた、嫌いなものばかりもらっていた」という逸話を話されて、最後の先生の大事な話が聞けなかったのは少し残念でした

施設入院療法で得た重症喘息児の課題

病弱教育の重要性

重症喘息児は、病気のため登校ができません。1997年と1992年の南福岡病院入院児の入院前後の変化のデータを表示されました。どちらの年でも入院前の欠席率は高く、入院して発作を抑え込むと学校に行ける、ということですが、大きな違いは1997年の入院前学校欠席率が最高30%で平均15%だったものが、1992年の入院前欠席率は最高60%で平均25%にも悪化していた、ということです。重症喘息児ほど30日以上の欠席日数が増え(30%)、そして学業不振児(成績で下)も30%いたというデータを示しました。このデータもあり、病弱教育が大変重要であることを肌で知った西間先生は、文部省の特殊教育調査官の横田雅史先生と一緒に、全国の大学病院の小児科に養護学級を作る、という目標を立て、その後達成。成功を収めました。2000年には西間先生と横田先生が監修をしている「病弱教育Q&A part I」が発行。その後も2003年までにpart Vまで発行し、教員など学校教育関係者に配布して、病気のことをわかっていただくような努力もされてこられたそうです

喘息は「母原病」なのか

精神疾患的要素としての喘息 喘息児は母親が悪い、家庭が悪い、という、いわゆる「母原病」と結構言われていました。あるいは重症喘息児には集中して事をこなせる能力にかけている、つまり性心疾患の側面もあるのではないかと、昔は結構言われていました。例えば新しく採用する人に入社前などに能力テストを行うことがありますが、集中してどれくらいことをこなせるか足し算させてその速さやこなす量、計算間違い率などで判断する「内田クレペリン精神検査」で南福岡病院乳世の喘息中学生を評価すると、「非定型群」や「重度非定型群」の割合が、喘息の重症所が上がるにつれて増えるというデータも得ました

確かに重症喘息児の作業能力が低いことは確かだが、母原病と一緒で、母親が悪いから、あるいは作業能力が低いから喘息が重症化するのか、喘息が重症だから、母親や家庭がおかしくなるのか、あるいは作業能力が低下するのか、鶏が先か卵が先かの議論に決着がなかなかつきませんでした。幸い九大病院には心療内科があり、有名な吾郷晋浩先生がおりましたので、共同でいろいろ研究してみました。喘息の薬物療法が進歩して来てからはっきりしたのは、やはり、喘息が重症だから家庭環境が悪くなるし、作業能録も落ちるなどいろいろ悪いことが起きてくるという結論に達しました。そりゃそうですよ。こどもが夜苦しくてせき込んでいるのに、みてくれるかかりつけ医はやってないし、薬もぜんぜんきかんし、急患センターはそんな子で埋まっていつまで待ってもみてくれないことが何日も続けば、普通の人でもおかしくなります。やっと喘息が収まり退院したら、家でまた発作おこしたからといって「母親のあんたが悪い、親の資格なし!」と今の時代にいった日には~SNSでさらされ、口コミサイトは荒れ放題。まあ、そこまで言い切れる医師は実は確からしく、そんな人が人の評判とか気にするとは思えませんが

話を戻すと、西間先生たちは喘息が心身症発症の要因になりうるということを伝えたく、「心身症診断治療ガイドライン」を作成しようと奮闘したそうです。なかなか全国の心療内科がまとまらず、結局厚労省に相談し、喘息の心療内科の主な教授に執筆依頼をし、心身症とあまり関係ない西間先生が監修ということで、2002年に「心身症診断治療ガイドライン」が発行されました。「喘息が心身症だ」といわれながら、いろいろなバックグラウンドがあるんだ、ということを、全国の心療内科の先生方に理解していただくことができました。現在では国立神経精神センターや九大心療内科などが中核となり改訂を重ねています

運動誘発喘息(EIA)

重症喘息児の施設療法の柱である運動療法。「朝みんなで走る」ことは、特に特別な施設がいるわけでもなく、施設療法が始まったころの鍛錬療法の柱でした。しかし重症喘息児をいきなりは朝はしらせたら、必ずと言っていいほど発作が出現していました。当たり前です、と先生は断言していました。10~15分ほど休ませると発作がおさまり、それから走らせて病棟に戻ると、そこまで発作はひどくない現象がしばしばみられました。西間先生の九大時代は、「ほらみろ、走らせれば喘息は軽くなる」と説明されていたそうです。それを聞いて先生は「ふ~ん、不応期だからじゃないの」と思っていたそうです。人間は運動で負荷をかけて反応を起こした後、しばらくの間、体が負荷に対して反応しなくなることがあります。このあまり反応しなくなるしばらくの間を不応期といっています

そこで、先生たちは自転車エルゴメーター運動負荷前後の喘息児の呼吸機能検査を詳しく調べてみると、健康児は一秒量、ピークフロー、V50など呼吸機能を表す指標は運動前後でほとんど変わりなかったですが、喘息中等症児や重症児は運動前後で25~50%以上の呼吸機能の低下を認めることがはっきりしました。50%以上悪化する子供がいることが分かった以上、当時の常識の鍛錬療法で走らせるのは無茶だ、ほかのことを考えないといけないのではないか、と思われました

1973年にゴッドフリーという有名な先生が、ランニング、トレッドミル、自転車エルゴメーター、水泳、歩行と、いろいろな運動で呼吸機能が下がるか調べて、その結果、水泳は歩行と変わらないくらいしか呼吸機能が変わらないことがわかりました。つまり「喘息児の運動療法にはやっぱり水泳だよね、プールだよね」という結論にいたりました。1977年です。まだこのころの南福岡病院にはプールがありませんでした。そこで早速、福岡市のプールを借りて水泳教室を始めました。水泳教室ができたのは、竹宇治(旧姓田中)聡子コーチという、当時肺炎で世界記録を何度も塗り替え、ローマオリンピックで前畑秀子以来のメダル(銅メダル)を獲得したすごい人が夫の福岡転勤に伴い福岡に来られ、幸いなことに???娘さんが喘息だったそうです。それで、「ぜんそくは面倒見るからさ、あんたは運動の方をしっかりやってよ。発作が起きたらコントロールするから」ということでオリンピックメダリストにコーチを頼めたわけでした。ただ、市のプールでは何かと制限があります。

こで先生は、南福岡病院院長の長野準先生に会えばひたすら耳元で「プールプールプールプール・・・」とささやき続けたそうです。長野院長は、まるで陸軍士官学校の鬼軍曹のような、ドンの中のドンだったそうです。このような先生がごりごりやってくれたおかげで、西間先生に自由になんでもさせてもらえたそうです。耳元でささやいていたら本当に室内温水プールを作ってくれました。1983年のことです。25mの4コースの本格的な室内温水プールです。国立病院では時々このような棚ぼたでプールができることもあるそうです。全国の国立療養所の3カ所に室内プールができたそうです。そのころ南福岡病院には眼科、耳鼻科、皮膚科がありませんでした。近隣の開業医の先生、眼科松井先生、耳鼻科山田先生、皮膚科山口先生にボランティアでプール検診を手伝っていただきながら水泳指導に取り組んだそうです

水泳が喘息児にいい、ということがわかり、1982年に環境省の研究費で「喘息児の水泳指導」を国立小児病院の板倉洋治先生と三島先生の共著で発刊しました。このころは共著相手の板倉先生とは、イスラエルの世界アレルギー学会でみんなの前で仮装して2人で銀座の恋の物語のデュエットまで披露されるほど仲が良かったそうです

そのプールですが、重症喘息児もだんだんいなくなり、2011年病棟改築時にその使命を終え、取り壊されてしまったそうです。喘息施設療法の遺構として取っておいてもよかったかな、といわれておりました。それだけ心血を注いで取り組まれていたということでしょう

その運動誘発喘息ですが、西間先生たちは、プロカテロール(メプチン)を吸入させた後に運動させると、呼吸機能(一秒量)の運動前後での変化がみられないことを見出して1987年に報告しています。このことがわかってから、運動前にプロカテロールで前処置しておけば運動誘発喘息はかなり防げるのなら、プールや水泳にこだわる必要はない、ということで運動療法は他の運動でやる、ということになりました

喘息死を防ぐためにはやはり呼吸機能、最終的には動脈血ガス分析

西間先生が喘息診療を始めた1960年代は、ドラム缶に水を入れたような装置に空気を吹き込む「ベネディクト・ロス型水封式のスパイロメーター」を使用して呼吸機能を計測されていたそうです。実際喘息児の重症度別に発作がない健常時の呼吸機能を図ってみると、FVC(努力肺活量)やFEV(一秒量)、PEF(ピークフロー)は、各重症度間で差がないのですが、末梢気道の閉塞や狭窄状態の指標であるV50は重症度が高いほど下がることがわかりました

スパイロメーター(ベネジェクト型/13.5ℓ)

残念ながら簡便にできるピークフロー検査では、健常時ではわからない。やはりスパイロなどで呼吸機能検査をおこない、V50などの末梢気道状態をみてみないといけないことがはっきりわかりました。にもかかわらず、喘息診療の外来でスパイロがルーチンで行われていないのは残念の極みであります、と叱責されました。本当に耳が痛いです

小児期に難治喘息であった症例の予後

2009年、福岡で第26回日本小児難治喘息・アレルギー疾患学会が福岡で開かれ、西間先生は特別講演で「小児期に難治喘息であった症例の予後・ケースレポートを中心に」の題でお話しされました

小児期に難治喘息と診断された現16歳から42歳まで(平均25.7歳)の48例(男23、女25)です。現時点の喘息の臨床的な重症度は、寛解2例、間欠型9例、軽症持続型8例、中等症持続型23例、重症6例です。その非発作時の呼吸機能、V50やピークフローを調べると、特にV50は悪い、ピークフローまでも重症度が進めば悪いことがわかりました。気管支拡張剤を吸入して検査しても、末梢気道の狭窄は全然改善しない、固まってしまっていることがわかりました。いわゆるこのころはやった「リモデリング」というものです。重症喘息だったこどもはすでに末梢気道はリモデリングしてしまっており、成人してもよくなることはない、ことを認めざるを得ません。 外国のデータでも、Phlanらのメルボルン喘息スタディで小児期に重症喘息と診断された児の42歳時の喘息の状態は、80%は持続性喘息か頻回発作歴で全然治っていませんでした

オランダのVonkらがまとめた30年後の小児喘息の状況も、完全寛解は22%、呼吸機能検査の異常は認めるが、症状が出ない臨床的寛解が30%で、半分は喘息発作か何らかの形で出現し、吸入ステロイドによる長期管理が必要な人も20%いました

小児期発症の気管支喘息は軽快、實解はしても治癒しない、特に重症児では将来を見通す診療が必要であることを強く感じられたそうです

よって2008年の小児ぜんそく治療管理ガイドラインにある治療目標、つまり最終的には寛解・治療を目指すが、日常のコントロール目標は・・・①β2刺激薬の屯用が減少、または必要ない、②昼夜を通じて症状がない、③学校を欠席しない、④スポーツも含め日常生活を普通に行いことができる、⑤PEFが安定している、⑥肺機能がほぼ正常、⑦気道過敏性が改善(運動や冷気などの吸入による症状誘発がないことが確認できる、といった目標は、難治喘息児にとっては無理ゲー、ハードルが高すぎると思われました。そこで西間先生独自の小児期発症の難治喘息の成人期における治療目標として、「日常生活のコントロールを目標」に重きをおき、そのためには①β2刺激薬pMDI(メプチンエアーとかフルティフォーム、タービュヘーラならばシムビコートなど)は常備しておく、②夜間睡眠を確保する、③仕事を無理しない、④激しい運動・労働をしない、⑤⑥の肺機能に関しては、急患センターにかかった時のことを考え、自分の無症状期の値を知っておく、⑦起動過敏性に関しては、気にしない、位に考えておいていいのではないか、と私見を述べられております。ここだけの話にして表に出さないでくれ、とおっしゃっていました。医療の限界により難治喘息児が成人になった後も肺機能低下などが慢性的に残存している残酷な現実を鑑みると、これくらいの低い目標でも仕方がないのではないか、と個人的には先生のご意見に賛同いたします

1990年代、日本の難治喘息の死亡率が高いことがわかり喘息治療の見直しがなされる

西間先生をはじめとして西日本の国立療養所が中心となって、50年前の1982年から10年ごとに九州山口9県プラス香川、兵庫の合わせて11県の同一地区・同一手法による広域経年疫学調査を行ってきました。昨年2022年、第5回調査が行われ、その結果を合わせ「西日本小学児童のアレルギー疾患疫学調査~WJSAAC phaseI~V」の題で、先日の西日本小児アレルギー研究会で西間先生自ら発表されました

まず疫学調査対象児童数ですが、1982年の55,388名から2022年には32,264名と、同一地区で行ってきたにもかかわらず過去50年に6割に満たない数となってしまっています。50年間のアレルギー疾患の推移ですが、気管支喘息は第3回(2002年)調査時をピークにどんどん減っており、アトピー性皮膚炎も第1回(1982年)をピークに減少傾向となっている一方、スギ花粉症、アレルギー性鼻炎、結膜炎、食物アレルギーは増加していました。とくに喘息は2022年(第5回)調査では見事に減少したのですが、これが本当に減ったのか、単にコロナで減ったのかは今のところわかりません、とのことです この疫学調査があったおかげで、世界の喘息疫学調査、国際小児喘息アレルギー疾患疫学調査(ISAAC)第1相(1995年)に福岡市の小学1年生と中学2年生のデータを組み込むことができ、史上初めて世界各国の喘息をはじめアレルギー疾患の有症率などの状況を比較することができました。その結果、喘息の有症率は小学1年で17.3%、中学2年で13.4%、アレルギー性鼻結膜炎がそれぞれ25.6%、41.0%、アトピー性皮膚炎が21.3%、13.5%でした。日本は低学年で喘息、アトピー性皮膚炎が多く、高学年でアレルギー鼻結膜炎が増加し、どの疾患も世界平均よりも有症率が高く、アジアでは最も高いことがわかりました

それ以上にまずいことに、1993年の日本を含む喘息有症率高率11か国の5歳から34歳における喘息死亡率の比較で、日本の喘息死亡率はオーストラリア(0.85%)に次ぐ第2位(0.7%)であったことが判明しました。喘息死亡率を重症喘息有症率で除した値は0.35と、11国中ダントツのトップでした(喘息死亡率1位のオーストラリアは0.25)。このころ日本で重症喘息児に対して唯一有効、と思われていた施設入院療法ですが、世界先進10か国の重症喘息児の死亡率からみて日本の死亡率のダントツの高さをみると、日本の喘息治療管理はおかしいと、世界中からたたかれました。世界のデータと比較することで初めて気づかされたことでした

世界ではどういう治療がなされていたか。このISAAC第1相の調査に先立つ1992年、私が聖マリアで研修医として鍛えられていたころです。世界中、特に先進国で喘息の罹患率や死亡率が増えてきていることを危惧した米国NIHを主導とする先進国11か国18人の医師科学者が集い、「喘息の診断と治療に関する国際的コンセンサスレポート(ICR)」を発表しました。そこには、「炎症こそが喘息の持続と経過の中心であることを認識しなければならないという点で合意した。喘息をコントロールできるかどうかは、その基礎となる炎症をコントロールできるかどうかによって決まる。進行中の炎症を抑制したり元の状態に戻すのに現時点で利用できる最良の薬剤は、吸入抗炎症薬(つまり吸入ステロイド剤)である」とぶち上げました。残念ながらこのICRには日本の医師はお呼ばれされていませんでした

このころの日本の喘息治療薬は、圧倒的にβ2刺激薬の内服(メプチン顆粒など)とテオフィリン徐放剤が圧倒的でした。日本の治療はけしからん、特にβ2刺激薬の使い方とか絶対だめだ、ということで、ニュージーランドのリチャード・ビーズリー博士、櫻井よしこ記者、国立小児病院の板倉洋治先生、薬剤オンブズマン v.s. ミスター喘息死こと松井猛彦先生、西間三馨先生、厚生省で討論しました。結果はさんさんたるもので、イギリスのデータでイソプロテレノール(短時間作動型β2気管支拡張薬)が喘息死を増やしている、サルブタモール(長時間作動型)は問題ない、という1982年のデータや、フェロテロール(ベロテック)の使用の仕方が日本は悪いというデータがでてしまいました

それに加え、2003年の日本のテオフィリン徐放性剤使用量が世界の4割を占める、というむちゃくちゃな使用実態が明るみになりました。ちょうどその前くらいから、テオフィリン製剤が痙攣重積を誘発する、いわゆる「テオフィリン関連痙攣」が話題となり、国内からたたかれました。厚労省医薬食品局安全対策課から資金が出て急性増悪期は海老沢元宏先生、長期管理は小田島博先生を中心にデータを集め、2005年「小児気管支喘息の薬物療法における適正使用ガイドライン」をまとめ、テオフィリン製剤使用については治療ガイドラインの基本治療から外され、追加治療に下げられただけでなく、使用にあたり細心の注意が必要になりました

そしてついに2017年喘息死ゼロ達成

日本人は外国からたたかれててからの立ち直りの速さは定評がありますが、1995年ISAAC第1相で日本の喘息死亡率の世界での位置づけが高いことが判明し世界からぼろくそにされた後、2000年から随時小児喘息治療管理に特化したガイドラインを作り、数年ごとに改訂して喘息治療管理を改善してきた結果、2002年の調査では喘息死死亡率は0.2%に改善、2013年には喘息死亡率0.05%以下に改善し、あっという間に世界でも喘息管理優等国になりました。そしてついに2017年、小児喘息死亡ゼロを達成することができたのです

アレルギー疾患対策基本法が策定されたが地方はなにもかわらない

喘息死ゼロ達成に先立つ2014年6月、西間先生肝いりの「アレルギー疾患対策基本法」が国会通解しました。アレルギー疾患の予防と症状の軽減として知識の普及と生活環境の整備、居住地域にかかわらず等しくアレルギー疾患医療を受けることができる均てん化の推進、アレルギー疾患を有する者の生活の質の維持向上、疫学研究・基礎研究・臨床研究の推進を基本的施策としています

それに2年先立つ2012年5月の日本アレルギー学会学術集会で「確固たるアレルギー疾患の研究・診療体制を確立するためにはアレルギー疾患対策基本法の策定が必要」とぶち上げたにもかかわらず、その年はなんと不成立だっただけに、大変なお喜びだったそうです。ただ、成立から10年になろうとしているにもかかわらず、都道府県レベルでの拠点病院が動かない(どころか大分県のように拠点病院がない県のほうが多い)、だから地域レベルの病院やクリニックはもっと動かない、という残念な事態に陥っています。私は2013年からアレルギー後進県の一つ、大分でこどものアレルギー診療を細々としておりますが、西間先生の無念を実感できます

アレルギー疾患は、いわゆる「コモンディジィーズ」なので、内科医小児科医ならば風邪診療のようにふつうの診療所でみています。アトピーの軟膏療法、喘息の旧跡増悪期の治療や長期管理薬の処方、アレルギー性鼻炎児や花粉症児への抗アレルギー薬の処方や舌下免疫療法薬の処方などがあげられます。しかし食物アレルギー児の診療や、減ったとはいえ重症アトピー、重症喘息児のように、クリニックレベルでは診られない患者さんもいます。県に子供から大人までアレルギー疾患をしっかり診ることのできるお墨付きの拠点病院がないので、クリニック側もどこに患者さんを紹介すればいいのかわからず困っています。たとえば「小児食物アレルギー負荷試験」のできる施設をネットで検索しても、こことかここのように本当にしているのか?あるいは実際に診療していても掲載されていなかったり、マイナカードではないけどひどいものです。拠点病院の前に、資金もそれ以前に小児科医内科医がいないので、重症アレルギー疾患の診療可能なアレルギー専門医の育成ができていない、いても診療できる医師が大分に居ついてくれない、などの人的資金的問題の解決が法律策定しただけでは難しかったようです。アレルギー診療に意欲を燃やす若い医師がこくの拠点病院にでて、真のアレルギー診療医にそだち、リーダーシップを発揮して大分のアレルギー診療を根付かしてくれることを切に願います

小児から大人まで通して正しい、最新の知識・治療を全スタッフが暖かく提供できる総合アレルギー診療の場を作りたい

西間先生は現在数か所の病院で非常勤でアレルギー診療をされておられるそうです。そのうちの一つNHO福岡東医療センターアレルギー外来を2023年4月からされておられます。6月までの計4回の外来患者さんの内訳を見ると、計29名で3歳から81歳まで。喘息は22名の76%を占めており、それら患者さんのうち13名はアレルギー性鼻炎合併、8名はアトピー性鼻炎合併、6名が食物アレルギー合併だそうです。このように、中高年の喘息を見る場合でも多くは多種のアレルギー疾患を合併しており、呼吸器内科の知識だけでなく総合アレルギー診療ができる力がないとだめだ、ということがわかりました。そして特筆すべきことに、11名はもと南福岡病院の長期入院患者だそうです。元患者の年齢域は44歳から59歳、平均年齢は49.5歳だそうです。いまだに西間先生がみていることはよくない、ともおっしゃられていました。

個々の患者さんを診てみると、メニエル、高血圧、脂肪肝、リュウマチ、精神疾患、膠原病、大動脈疾患、不安神経症、認知症、乳がん、更年期障害、ベーチェット、薬物アレルギー・・・とこんなに合併しているのだから、Drコトーじゃあるまいし、もともと小児科医の西間先生に診れるわけがない、と嘆いておられました。それどころか内科のほうも、総合アレルギーの知識だけでは足りず総合診療ができる力をつけないとだめだといわれていました

最後のスライドで、「すんまっせーん、重症喘息児に申し訳ないと思っていることは…小児にから大人まで通して正しい、最新の知識・治療を全スタッフが暖かく提供できる総合アレルギー診療の場が作れなかったことですね」と講演を締めました。あと10年くらいあればなんとかできたかも、とおっしゃっていました

おまけ:旧上天草喘息センターのこと

最後におまけ、として、今回フォーカスした重症喘息児に対する施設療法について補足させていただきます。かつて「長期入院による重症喘息児のための施設療法」のメッカといわれた施設が天草の龍ヶ岳町にありました。「上天草喘息センター」です。上天草病院初代院長・岡崎禮治先生が創設し、難治喘息児の診療研究をライフワークとして行った、日本が世界に誇れた重症喘息児長期療養施設でした。岡崎先生は、患者・職員・住民みんなから「名誉院長、名誉院長」と慕われていた上天草の名物院長でした。名誉院長が1998年に全国自治体病院協議会主催の「へき地医療の体験に基づく学術論文」に応募した論文「離島の特性を生かした小児気管支喘息に対する治療とその効果」は、その年の最優秀賞を獲得しています

へき地医療の体験に基づく学術論文No.7 1998年

名誉院長はもともと外科医で、「重症気管支喘息治療のための肺手術」を専門とされておりました。恩師で仲人の勝屋忠弘教授が重症喘息を患っており、上天草病院の初代病院長を依頼されたときに、ここならば恩師を治せるのではないか、ということで、縁もゆかりもない龍ヶ岳の町立病院院長就任を決めたそうです。ただ残念なことに恩師の勝屋先生は、上天草病院開院直前に喘息重積でお亡くなりになりました。それでも温暖な海洋性気候で、海や山、空気のきれいな龍ヶ岳で都会の喘息児を治せないわけはない、と考えました。1964年の病院開設当時から名誉院長の友人のご子息らの長期入院など手掛けながら、1965年夏には、夏休みで空いた看護学生寮を使用して第一回喘息教室を開始。熊本大小児科喘息児を中心に20名の参加をえて2週間、名誉院長を中心に多くの職員・看護学生ボランティアの協力のもと、悪戦苦闘で大成功で無事終了。この喘息教室は「主婦の友」で「小児喘息は夏休みに直そう」という特集で上天草の喘息教室を取り上げていただいたそうです。以後、2007年夏の喘息教室で終止符を打たれるまで併せて84回つづけられました

第1回喘息教室成功に自信を得た名誉院長は、当時の龍ヶ岳町長をさそい、1968年湘南の国立小児病院二宮分院の浅野知行先生が早くからやられている喘息の施設療法を見学されました。小児喘息児専用病床を建設したい、という名誉院長の意望に町長も賛同され、病棟建設陳情開始。県や厚労省には「辺鄙にそんなにたくさんの病床どうするの?」という疑問の声もありましたが、熊本県選出の厚生省族のドン園田直代議士の支援もあり、28床の増床計画が認可されました。2,500万円の国庫融資も決まり、鉄筋2階建ての工事を発注。そしてついに病院5周年記念式のすぐあと、1968年7月26日に小児喘息病棟竣工式が行われ、上天草喘息センターが療養病床28床で開始されました。今回取り上げた西間三馨先生がちょうど小児科医として医療活動を開始した年のことです

上天草喘息センターはセンター長(院長)と小児科医、専任の病棟看護婦、4名の生活指導員、臨床心理士、保母、栄養士や調理師で運営されていました。病院を挙げて盛り立てていました。喘息治療の中心は、集団生活を通して、規則正しい生活習慣の獲得と鍛錬療法です。今の時代には合わないかもしれませんが、喘息入所児の生活の一端をご紹介すると、8人一部屋で班分けをおこない、班員は中学生から小学生まで混在。年長者は年少者の面倒を見ることで責任感を培い、年少者は集団生活を営む上でのしきたりや我慢を身につける。朝5:30検温、6:20起床洗顔、6:30から病院周囲をマラソン、屋上で冷水摩擦、喘息体操などの鍛錬療法。7:00朝食。部屋掃除後に7:30登校となります。学校は龍ヶ岳町の公立小中学校の高戸小、大道小、樋島小、龍ヶ岳中、大道中の5校に分散して地元の小中学生に交じり学びました。地元の小中学校の先生方には大変お世話になりました。大道小中、樋島小登校児童生徒には、病院マイクロバスが出ていました。帰院すれば順次800mほど水泳。入浴後に小児科医による診察となります。夕食は18:00。19:00から喘息体操、冷水摩擦を行い、ピークフロー測定、日記をつける。20:00から自習、21:10に就寝となります。喘息病棟では冷暖房器具は使いません。テレビは土曜8時から「俺たちひょうきん族」のみ。家族との面会は一斉面会日が月1回のみ。電話は家族からだけ月3回まで。手紙は自由だったそうです。一度親子を物理的に離断して関係性を再構築させる、親子離断術(Parentectomy)と親子接合術(Parentostomy)、といういかにも外科医の名誉院長の考えそうなスパルタ方式で徹底的に鍛え上げていました。それで療養施設の間では「剛の上天草、柔の南福岡」といわれていたそうです

特に4人の生活指導員の先生方は、きかん坊の入所児たちを心身から鍛えなおしていただきました。今だから話せるけど、なかにはやんちゃをやりすぎ一晩病院裏の木に括りつけられた入所児もいたそうです。それだけではなく交代で遅れがちの勉強の面倒までみていただいておりました。センター運営には欠かせない存在で、開設時から長い間情熱と誇りをもって勤めあげていただき、名誉院長からの信頼もとても厚かったようです。このような厳格な生活を通じておのずと生活リズムと勉強の遅れを取り戻します。これだけで薬物療法からどんどん離脱できていたのをまのあたりにした私を含め、小児科担当医にとって驚きでした

喘息センターには、毎月のように楽しい年間行事も用意され、1月どんど焼き、2月龍ヶ岳登山、3月潮干狩り、遠足、6月修学旅行、7月七夕祭、遠泳大会、9月林間学校、十五夜綱引き、遠足、10月運動会、キャンプ、ピクニック、11月文化祭、芋ほり、魚釣り大会、12月寒中水泳大会、クリスマスパーティー・・・と聞くだけでもウキウキするような行事満載でした

喘息児の遠泳大会の様子(参加児60名、距離2km)

開設後の沿革ですが、1972年7月の天草大洪水での病院大破などの困難もありましたが、1973年小児気管支喘息治療研究施設認定、1974年屋外プール完成、1978年小児喘息病棟は70床に拡大、1979年屋内プール完成、第1回大牟田市青空教室開催、1986年第1回熊本市親子喘息教室開催、1985年ソーラーシステム導入による屋内プールの温水化と発展を続けていました。そして1988年には、第5回日本小児難治喘息研究会(1995年西間先生たちの設立、現日本小児臨床アレルギー学会に発展)の会場に上天草喘息センターが選ばれ、全国から難治喘息研究者が龍ヶ岳に集いました

しかしこの研究会が行われたころが上天草喘息センターの全盛期だった模様で、1991年には新病院竣工に伴い新温水プール付の新病棟に移りましたが、小児喘息病床は54床に減りました。1998年には小児喘息病棟は「療養型病床群」46床に変更されました

そして2000年に入り「日本(じゃなくて自民党だったかも)をぶっ壊す‼」といって出てきた小泉首相による改革で療養病床は徹底的に狙い撃ちされ、診療報酬を立て続けに減らす政策を打ち出されたこと(喘息の施設療養をやればやるほど赤字になる仕組み)、そもそも喘息の長期管理の主体が吸入ステロイドになるにつれ、難治喘息児もいなくなり、上天草喘息センターは衰退の一途をたどりました。上天草喘息センターだけではありません。西間先生の南福岡病院をはじめとする全国の国立療養所も同じ憂き目にあい、喘息療養施設は早々に閉鎖されてゆきました

それでも最後の砦の意地で喘息以外の問題点も大きい児童たちを中心に細々と鍛錬療法を続けていましたが、ついに2007年、地方公営企業法の全部適用、つまり市長から任命された病院事業管理者(多くは病院長)に予算や職員管理など経営する権限を委譲する、つまり経営を市から分離して独立して運営するようになったことが決定したことが決め手となりました。喘息の管理が、鍛錬療法から吸入ステロイドなどの抗炎症薬に代わり、劇的な改善を見せる中、赤字垂れ流しの喘息の療養施設も無用の長物、ということで、2007年3月に正式に上天草喘息センター閉鎖、40年の歴史に幕を閉じました。これで日本から施設療法の灯は消えました。1965年から毎年夏に開催していた喘息教室、1979年から毎年行っていた大牟田市青空教室、1986年から毎年行っていた熊本市親子喘息教室もこの年を最後に終了し、上天草の喘息とのかかわりの歴史に終止符をうちました

2008年5月天理市で開催された第25回日本小児難治喘息アレルギー疾患学会でも元生活指導員の先生が喘息センター40年の歴史を発表しました

私が上天草喘息センターにかかわったのは、海外留学直前の2001年1月2月と、帰国直後に上天草総合病院勤務した2006年夏から2007年3月センター閉鎖、そしてその年の最後の夏の喘息教室、翌年の2008年まで行っていた大牟田市青空教室、熊本市親子喘息教室まで。1回目の2001年の冬はまだ30名程度の喘息児が入院して、それなりに活気あり、朝の入所者のこどもの冷水摩擦の掛け声で起きていたような感じでした。たった2か月だけでしたが1月のどんど焼きにも参加したのも覚えています。帰国後の2006年夏の病院就職直後の夏の喘息教室からセンターに係らせていただきました。もうそのころにはセンター入所児はわずか7人にまで減っており、集団生活での鍛錬療法など望むべくもなかったです。すでに難治喘息児は日本からいなくなっており、喘息入院、というよりも、社会的問題による生活支援入院という感じでした。療養入院の診療報酬が激減され、受け入れれば受け入れるだけ赤字が膨らむ状況でした

私個人的には短期間の喘息センターとのかかわりでしたが、それでも喘息だのことだけではなく大切なことをたくさん学びました。それにかけがえのない思い出もたくさん作れました。2007年夏の最後の喘息教室では、教室参加児たちとの病院前の海でのサビキ釣りでは小イワシの大群がわいてきて、堤防の上までイワシの群れが上がってくるほどでした。2007年のセンター閉所後も中学3年生の男子が1人病院に残り、翌春高校入学のために退所したときは感無量でした。その子のことは多分一生忘れないでしょう

最後の喘息教室の様子を地域医療連携室通信「あこう」に投稿しました(2007年11月号)

今回、西間先生の難治喘息の講演を聞きながら、センターでかかわった方々のことを懐かしく思い返しています。名誉院長こと岡崎禮治先生とも2007年3月の喘息センター退所式の2次会「吉田食堂」でお酒を酌み交わした以来ご無沙汰です。生活指導員の先生方も何名かはすでに鬼籍に入られたと風の便りで聞いています。名誉院長の残したいくつかの書籍を読みかえしながら、15年前センターがまだあり活気があった上天草病院のことを懐かしく思い返しています

診療内容:小児科・アレルギー科・予防接種・乳児健診
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